

『空港にて・2』
東京駅の中のトラベラーズファクトリーがオープンした当日に仕事を終えてから駆けつけた。オープン初日であること、場所柄アクセスが良くて他の店舗よりも遅くまで営業していることなどから、私のように仕事帰りに立ち寄る方が多いだろうと予想していたので、ある程度の混雑は覚悟していた。その日は平日であり翌日も仕事なので、プロデューサーの飯島淳彦さんをはじめ旧知のスタッフの方々にお会いできたらご挨拶をして、必要なものをサッと買って失礼しようと思っていた。
東京駅の地下道の中で迷ってしまい、少々時間がかかったがお店に辿り着けた。開店初日だけに賑わっているなと思いつつ入店しようとすると、駅の商業施設の関係のスタッフらしき方に制されて、整理券を渡された。私が入店を許されるのはその時点からおよそ90分後であった。周りを見渡すと、何と店舗の周りに動線が敷かれていた。動線は整理券に書かれた時間に入店のために改めて集まった人たちと、レジで精算をする人たちを分けて並ばせるものであった。入店のために並び、精算のために改めてまた並ばなければならない状態であった。入店まで90分・・・数年前に都内で頻発していたハワイアン・パンケーキ狂騒曲を思い出した。
入店を待つ列に加わっているあいだに、駅も変わったものだと思った。駅ビルと駅ナカの厳密な違いはよく分からないが、駅ビルという言葉は、とっくの昔に死語になっていて、いまでは電車を降りて改札を抜ける前に利用できるお店も含めて駅ナカというのだろう。
子供の頃に最寄りのJR(当時は国電とか国鉄と呼んでいた)の駅に駅ビルが併設されたときの驚きといったらなかった。おもちゃ屋も本屋もみんなそこにあり、たまに親に連れて行ってもらうのがとても嬉しかった都心のデパートのようだと子供心に思った。
駅ナカと呼ばれるようになったころからは、おもちゃ屋やスポーツ用品店などはなくなり、主に日々の生活により必要な実用的なものが並んでいるお店がスペースを占めていったように見受けられる。お店に関するこだわりが特にないなら、デパートやショッピングモールにわざわざ行かなくても、仕事や出先からの帰りの駅ナカで事足りてしまうようになった。床屋、美容室、マッサージもある。ちょっとしたホテルの地下にあるアーケードと遜色なくなっている。
ぼんやりとそんなことを考えているうちに、そういえば靴磨きを見なくなったなと思った。かつては東京駅に限らず、各駅には靴磨きがいた。場所は様々だったと思うが、大きな駅だったら改札から出口までの間の広い通路の途中だったり、普通の駅だったら駅の目の前のタクシー乗り場のすぐそばだったり。靴磨きを見なくなったのはいつの頃からだっただろう。時代が平成になった頃はもう見かけなくなった気がする。
旅はある意味非日常、すなわち普段生活をしているところとは異なるところへ出かけていくことである。そうなると、普段日本ではしないことを旅先ではすることになったり、してみたくなったりする。1990年代終盤から2001年にかけてアメリカへよく出張した。当時アメリカの空港にはまだ靴を磨いてくれるところがあった。入国審査を終えてゲートまでに行く途中に様々なお店があるのはよく見る景色だが、その中に靴磨きのお店もあった。日本では利用したことのない靴磨きの店内に入り、階段を数段上がったスタジアムの観客席のようなシートに腰を落ち着けると、目線がゲートを行き交う人たちを見下ろす少々落ち着かない非日常の高さになった。日本の靴磨きの職人は、概ね腰をおろして仕事をしていたと記憶しているが、アメリカでは靴磨きの職人は立って靴を磨くので、客が座る位置がその高さになるのだろう。
隣り合わせる欧米の客はパリッとしたスーツを着ている人が多く、人に靴を磨いてもらっていることに照れがなく、非常に慣れた感じであった。靴を磨いてもらっているあいだは新聞を読んでいる人が多かった。こういうとき英字新聞は映画の一場面のようで様になるな・・・などと、普段とは異なる高さの視線であたりを落ち着きなくキョロキョロしながら思った。落ち着きなくキョロキョロしたのは、靴を磨いてもらっていることに照れがあったからだろう。2017年のこの時代だったら、靴を磨いてもらっているあいだも、万国共通で誰もがスマートフォンのスクリーンを見つめているのだろうか。
空港の靴磨きを一番利用したのはミネアポリスだったが、デトロイトもシカゴもお店の作りはほぼ同じだった。デトロイトの空港の靴磨きの場所はもう忘れてしまったが、ミネアポリスはトイレに近い場所に、シカゴ(オヘア空港)は各ゲートへ続くコンコース毎にあったと記憶している。
職人はほぼ黒人で作業服としてガウンを着ていた。客のズボンを汚さないように、ちょっと裾をあげてくれと言ってくる職人もいれば、終始無言の職人もいた。作業中ニコリともせず終始無言でも、料金に少々チップを上乗せして支払うと、白い歯を剥き出してそんな素晴らしい笑顔を持っていたのかとこちらが驚くくらいニッコリと笑って ” Thank you” といった。加えて“Have a nice trip!”ともいってくれたかもしれない。
職人たちは靴磨き用の洗浄液やクリームをズボンの裾を汚さないギリギリのところまで使って、無駄のない手順で布を器用に使い、片方ずつ丁寧に磨き上げた。腰を落ち着けてから料金を払って店をあとにするまで時間にして10分足らずだっただろうか。料金はチップも含めて5、6ドルだったはずだ。靴磨きはほぼ帰国の際のフライトに乗る寸前だったので、靴を磨いてもらっているときは“ひと仕事終わった。さあ帰るぞ。”という気持ちになった。
なぜ靴を磨いてもらったかというと、「欧米のホテルは客が腕にしている腕時計で客を値踏みし、日本の料亭は客が履いている靴で客を値踏みする」というのを何かで読んだことがあったからだ。ホテルで最初に接するのはドアボーイかベルボーイ、もしくはチェックインの際に対面するフロントデスクのクラークだろう。彼らと言葉を交わすのもそこそこに既に腕時計を見られていて、値踏みをされているかもしれない。特にチェックインの際は書類の記入を求められるので、さらにじっくりと値踏みされているかもしれない。あまりに薄汚い身なりに安っぽい腕時計では、たとえ高い部屋を予約していてもそっとダウングレードされているかもしれない。腕時計も含めてそれなりの小綺麗な身なりならば、その逆もあるかもしれない。
私は旅に出る際、特に海外の場合は、例え現地で使うために持って行ったとしてもコレクターが世界中にいるようは軽い腕時計をして飛行機には乗らないし、ホテルのチェックインもしない。
靴も同様で、下足番がいるような料亭には行ったことはないが、女将や仲居にもてなされる前に既に下足番に値踏みをされているのであろう。薄汚れた靴なんか履いていたら、靴べらを差し出してくれる下足番にいくらチップを弾んだとしても、一度下がった“値”は上がらないだろう。
私が帰国便に搭乗する前にプロに靴を磨いてもらったのは、自社便とはいえ国際線のビジネスクラス以上に乗ることが常だったので、薄汚れた靴では、シャレではないが、正規料金を払って搭乗しているパリッとした身なりの客(当時なら“お客様”か)や自社の乗務員たちに足元を見られるような気がしたからだ。アジアへ出張した場合は、アメリカに比べてグレードが高めのホテルが多かったので、部屋に備え付けのシューミトン(靴磨き用の手袋のようなものといえば伝わるだろか)でできる限り自分で磨いた。
空港も国際線の機内もそこは既に外国である。国から承認されて手渡された自国のパスポートを携えて外国に行くことは、日本を代表して外国に足を踏み入れていることと同じであることをどこかに意識しておく必要がある。そういう意識を持つと、身だしなみが自然と変わってくるはずだ。
家を出て旅先のホテルの部屋に入るまで、ホテルを出て家に帰るまではこの意識は常に保ちたいと思っている。
当時よくアメリカ出張へ履いて行き、磨いてもらった靴は15年以上経った現在でも健在である。それぞれ買ったのはもっと前だったので、磨いてもらったおかげで現在でも履けるのかもしれない。
何度も磨いてもらったのはこの二足です。いまでも十分履けます。
2007年に香港へ行った際に、ふと靴磨きのことを思い出して、帰国便に乗る前に探してみた。”Shoe Shine”と看板のついたワゴンのようなものがシートに覆われてポツリと忘れもののように置いてあった。
昨今は靴の材質も変わり、職人の手を煩わさなくても綺麗に履き続けられる靴が増えているのだろう。成田空港のトラベラーズファクトリーに行った際に、空港のインフォメーションに聞いてみたが、靴を修理してくれるところはあるが磨いてくれるところはないという返事だった。(第2ターミナルは不明。多分ないだろう。)
世の中なんでもスピードが問われるようになり、立ち止まって一息つくことが憚れるようになった。駅ナカにも町中にも15分で完了してくれる床屋やマッサージ店が繁盛している。クイック、クイックと鳥の鳴き声のようなフレーズに急かされるこんな時代だからこそ、靴磨きはちょっと一息ついたり、考えを整理したりする時間に充てるのにあると嬉しい。
旅の終わりには、旅の一番のお供である靴にもリフレッシュさせてあげる必要があるかもしれない。ご苦労さんの意味も込めてプロにしっかり磨いてもらって手入れをしてもらうのは、靴にとっては結構大切なことだろう。自分がマッサージを受ける感覚で、靴のために手入れをプロに委ねることで、自分ばかり旅先でリフレッシュしちゃってなどと散々こき使った靴に恨まれなくて済むのでは・・・なんてことを思った。
追記
1. 今回は「空港にて・2」ですが、「空港にて・1」というタイトルでは随分前に書いていました。
この話を気に入ってくださっている方は、結構いらっしゃいます。
未読の方はどうぞご笑覧ください。
2. 2009年に飯島さんが自身のブログで紹介なさっていた ”THE LIMITS OF CONTROL” という映画を、ブログを拝読した直後に観ました。この映画で靴磨きの場面が出てきました。その場面でアメリカの空港でよく靴を磨いてもらったことを思い出し、以来いつかこの話を書こうと思っていました。気がつけばもう8年も経っていました。興味のある方は飯島さんのブログ「旅人の視点」を一読の上、この映画をご覧になってはいかかでしょうか。
これはその映画の絵葉書です。多分映画を観た後で飯島さんに同じ絵葉書で映画の感想か何かを伝えたと思います。