

『1999』
「先輩、野球観に行こーよ。」と1999年の一日、三年も後輩なのに所謂タメ口をきく会社の後輩S(女性)から連絡があった。Sが観戦を熱望したのは、工藤公康投手が当時在籍していた福岡ダイエー・ホークスの試合だった。工藤投手が西武ライオンズにいた頃からの熱烈なファンだったそうだ。私とSの共通の後輩で、やはり野球に関わる仕事がしたいからと関東地方を本拠地としたチームに転職したT君に、ホークスが関東に遠征してきたときにいろいろと便宜を図って貰い観戦した。チーム関係者に取り計らって貰った便宜というものは、振返って見ると、野球小僧にとっては、野球界の未知の部分へのちょっとした旅であった。詳細を書くことは控える。トラベラー各位の中で野球好きの方には、それがどういうものかはご想像いただきたい。ボールパークに着いてから出るまで、それは夢のような時間であった。ちなみにホームチームの関係者に手厚くもてなして貰ったにも関わらず、Sはビジターのホークスを応援していた。後に私に巡って来た幸運で、自分もほぼ同じことをすることになるとはそのとき全く思わなかった。
これを入手したことで、T君に“取り計らって貰った便宜”を想像していただければと思います。
あの王貞治さんが目の前で、ほんの数秒でしたが、私のために時間を割いて下さってサインをして下さったのは感激でした。その様子を横で見ていた後輩Sは・・・書くのは控えます(汗)。
後日行きつけの飲み屋の常連の一人に、「ジャイアンツの頃からの王さんのファンでも、ホークスのカードでサインを願ったのは非常に行儀がいい」と褒められました(笑)。
その1999年の日本シリーズは中日ドラゴンズと福岡ダイエー・ホークスの対決になった。トラベラー各位の中で野球ファンの方々には、ドラゴンズの監督は星野仙一さんで、ホークスの監督が王貞治さんのときの日本シリーズといえばピンと来るだろうか。航空会社の頃の同僚で現在も飲み友達でもあるKさん(女性)に、その日本シリーズの名古屋で行われた第三戦に招待していただいた。愛知県出身のKさんはご親戚にドラゴンズの関係者がいらしたのでチケットを融通して下さったのだ。同じ部署の別の課で同じく愛知県出身のF君とともにその試合に招待して下さった。
日本シリーズにご招待いただく前に、Kさんのそのご親戚の方に ”取り計らっていただいた便宜”。
これらのカードと一緒にお渡ししたマジックペンもカードと一緒に保管してありました。
ドラゴンズファンのトラベラー各位には垂涎でしょうか?
しかし、外国人プレーヤーのみというのが私らしいと思いませんか?(笑)
彼らも野球をしに日本へ旅をして来たのだと、いま改めて思いました。
有給休暇を取り、ナイトゲームで行われるその試合の当日にのぞみに乗って名古屋へ向かった。旅支度はRIMOWAのボードケース一つだけ。服装は薄手のセーターにジーンズ。旅の目的は野球観戦のみ。当時の私は旅といえば海外への出張がほとんどだったので、それは新鮮だった。名古屋までの新幹線の車中で何をしていたかは全く覚えていない。まだ訪れたことのないボールパークに思いを馳せていたのだろう。名古屋を訪れるのはそのとき生涯二度目だった。一度目は私のストーリーに何度も登場しているリチャード氏と名古屋で落ち合い、仕事をしてそのまま福岡へ移動して、福岡でもう一仕事したときだった。振返って見ると、一度目も二度目もその名古屋の訪問に “ 福岡 “ が関わっていた。
宿泊先は栄にある名古屋ヒルトン。初めて名古屋を訪れたときに宿泊したところだった。目の前にハードロックカフェがあり(現在は閉店)、近くには劇場の御園座と、味噌煮込みうどんで有名な山本屋があった。ナゴヤドームへ向かう前に時間が許す限り街を歩き回り、山本屋で味噌煮込みうどんを食べた。日本シリーズとそのとき御園座でかかっていたお芝居の所為か、テレビで見かけた野球解説者や役者を何人もヒルトンのロビーで見かけた。
ナゴヤドームへは地下鉄で向かった。大曽根駅で降りて歩くというのはどうやって調べたのだろう。(現在は “ナゴヤドーム前矢田” という駅があるようだ)インターネットは一般的ではなかったし、携帯電話もメールの機能は無かった頃だったと思う。ホテルのコンセルジュに尋ねたのだろうか。ナゴヤドームへは全く迷うことなく辿り着けた。初めて乗ったその土地の地下鉄で初めてのボールパークへ行く。旅好きであり野球好きの私には至福の時だった。ニューヨークで地下鉄に乗ってメッツの試合を観にシェイスタジアム(1991年)へ行ったときのことを思い出した。ナゴヤドームへは栄から地下鉄に乗って大曽根へ行き、歩いて行ったということを、名古屋出身の方に出会うと必ず話していた時期があった。ほぼ全員が何でそんなに名古屋に詳しいのですか尋ねるので、それが愉快だった。私が東京っ子であることを知っている方は、私の口から“大曽根”という地名が出てきたことにまず驚いたようだった。
関東以外でプロ野球を観るのはそのとき初めてだった。どことなく景色が異なり、匂いも関東とは違う気がした。Kさんを通じてドラゴンズの関係者の方に用意していただいた席は当然ドラゴンズ側だった。その席でホークスを堂々と応援すること(東京っ子だから当然応援するのは王さんだった)はもちろん憚られた。オフの日だし、ボールパークへ行くのだからと被って行ったキャップはメジャーリーグのミネソタ・ツインズのものであった。何故ツインズのキャップにしたかというと、我々三人が勤めていた会社の本社がミネソタにあったからだ。この気配りが前述の後輩Sとは大いに違うところだと今でも自負している。
“訪れた証”としてナゴヤドームで購入してボードケースに貼ったステッカー(左)とそのとき被っていたツインズのキャップ(右)です。
プログラムはありましたがチケットの半券は見つかりませんでした。(涙)
もしかしてKさんがF君の分も含めて一括管理だったのでしょうか?(笑)
プログラムはどちらの本拠地でも販売出来るように表紙に工夫が凝らしてありました。
その試合はホークスが勝った。そのときの私にとっては王さんが勝ったというところか。
前々作の「遠出・5」を書いたきっかけは、2014年の今年行われたサッカーのワールドカップに端を発し、自身の身の回りや周りの方々に起きた出来事に節目を感じて約13年振りに成田を訪れたことだった。その遠出で自分の中に燻っていた航空会社を去らなければならなくなったことに対する蟠りが徐々に小さくなり始めた。感情の変化も旅に似ているかもしれない。
この話を書くきっかけは、先日のKさんとの約13年振りの再会だ。お互い会社を辞めて以来の再会だった。Kさんから連絡をいただき、来年早々ご家族の都合でしばらくアメリカの西海岸で生活するのでその前に飲みましょうということで再会した。大いに飲んで、大いに話したその再会でこの名古屋への旅を思い出し、この話を書こうと思った。この再会もこの2014年に自分の中で感じてきた節目の一つだと感じる。蟠りが以前のままだったら、当時の仕事仲間達には、時間を作って会おうとは思わなかったからだ。自分が年齢を重ねて来たためか、最近身の回りの出来事一つ一つに対して過去と未来との繋がりを考えてしまう。この話を書きながら、多少考え過ぎだと思える点は否めないが、20世紀の節目の年だったその1999年のこの旅に登場した人達(比較対象とするには大き過ぎる方々だが)にも、私と同様にこの2014年はそれぞれ節目といえるであろうことが起きている。
例えば、その1999年のドラゴンズの監督は星野仙一さんで、2014年の今シーズンを最後にゴールデンイーグルスの監督を辞任。1999年に観戦したその試合のドラゴンズの先発は山本昌投手で、2014年の今年最高齢での記録を数々樹立。
それから、“ダイエー”という屋号の消滅が発表されたのも、この2014年だ。
結局は偶然が重なっただけなのだろうが、振返って見ると現在との繋がりが幾つも散見している旅が、重ねてきた旅の中にある。トラベラー各位にもいくつか思い当たるそのような旅がおありだろう。目の前の出来事がその時は考えもしなかった過去の旅と繋がっていたりすることもあるのだ。私の場合考え過ぎである点は否めないけれど・・・。今後はそのような視点で旅を振返ることが多くなりそうだ。
このストーリーを掲載していただけたとしたら、そのころには、また一つ遠出をしている予定だ。その旅も節目を意識した中で自然と計画していた。旅と同じく、身の回りの出来事も “巡る” のかなと思った。
追記:
1999年に観戦させていただいたその日本シリーズはホークスが優勝しました。王さんがパリーグのチームの監督となって優勝したその日本シリーズは、名古屋まで観戦に行ったこともあり特別なものでした。後からいろいろなものを入手しました。
名前を入れるサービスは選手が対象だったのですが、監督でお願いしたところ、ホークスのショップは気持ちよく受け付けてくれました。ジャンパーはたまに袖を通します。
未開封の白いTシャツは色が変わり始めています。あれからもう15年ですからね〜(笑)。
尚、この話に登場した方々との現在の繋がりは以下の通りです。
(リチャードは各位ご存知の通りなので割愛)
後輩S : 2003年を最後に音信不通
後輩T:現在も数年に1回くらい電話で話す
Kさん:再会前も現在もメールと絵葉書で交流あり
後輩F:2001年の退職を最後に音信不通
巡り巡って、どこかで再会するでしょう。再会するのはそれぞれに縁のある旅先かな・・・。