

コレクター 3
彼と白衣の店員は延々と話し込んでいます。ここは時計売場の相談コーナー。否、正式には「修理室」と呼ぶそうです。私は延々と講釈する彼の横顔を眺めながら、このパワーはどこから湧いてくるのか探っているところです。
なぜこうもこのロンジンにこだわるのか?
いよいよ彼はカウンターのメモ用紙になにやら書き付け始めました。
「もともとこの針は、先端がこんな風に鷲のくちばしのように湾曲していたんです」
「なるほど、先端が湾曲している針ですね。一応探させますが、針は針だけ流通しているんですが、かなり前のものは型も限られてくるかと…」
「そうでしょうね。では、どうせ交換するなら長針も短針もペアがいいですね、デザイン的にはこんな感じの…」
そう言いながら彼はさらに書き付けます。槍の剣先のような型です。
彼がようやく「では、よろしく」と立ち上がったのは、40分近く経った後、3枚のメモ用紙がカウンターに残されていました。
私は息苦しくなってしまいました。時計の針一本で40分。今まで彼がこのカウンターで過ごしてきた時間を思うとさらに苦しくなります。私の知る限り彼は、仕事の上でも、会社以外でも、こだわるようなところはまったくないのです。そのくせ、こと時計となるとなぜこんなに難しいのか。そのコントラストがさらに息苦しさを増幅させるのです。
「やあ、まいったよ、朝、寝床で一瞬ヒヤリとしたよ。何時かわからないんだ。長針が自然に折れたんだ。くだらない話だが『こんなこと一生の間にそう何回もあることじゃない。』なんて思わず逆にうれしくなったね」
そう、彼が自慢げに話していたのも思い出します。
*
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10月に入って私はふたたび修理室を訪れました。例のデパートの時計売場です。
久々です。もう、あれから3ヶ月ほどが過ぎています。
あれは確か7月の蒸し暑い夜のこと。何となく帰り道が同じ彼の話につられて、追いて行ったのでした。
今はもう季節も変わり、あの蒸し暑さすら懐かしく感じます。
その間、この夏にはいろいろなことがありました。暑い夏でした。
8月、気温はさらに上がり、39・6度という、観測史上最高温を記録しました。翌日の午後には、今度は瞬間消費電力が過去最高となったりもしました。そして、その夜、彼がなんの前触れもなく亡くなってしまった。
ちょうど高校野球の決勝戦の夜です。正確には日付は翌日となりますが、お盆休みの早朝のことです。社の総務の担当からの電話でした。
「『少し体がだるい』と、早めに休んだまま、夜中には亡くなっていたそうです」
「はいっ、わかりました。とりあえず今夜6時からお通夜ですね、うかがいます」
まるで事務的でした。
気温が観測史上一番になり、消費電力が最高になり、そのついでになんの前触れも苦しみもない亡くなり方です。多分、本人としてもまさかこれで一生を終える眠りとは気付かず、つい、深く眠ってしまったようなもので、納得などできていないことでしょう。
私はプール帰りの家族連れとすれ違いながら電車に乗り、盆踊りへ向かう人達と彼の家まで歩きました。汗だくでした。集まった同僚達もそろって上着を片手に、汗を拭いています。それが皆あまりに健康的な顔色なので、彼には申し訳ありませんが、とてもお通夜の雰囲気ではなかった。まるで飲み会に集まったような…
そして、つい先日、突然、社の私のデスクに手紙が届きました。
彼の奥方からの封書です。
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拝啓
生前、主人が大変お世話になり、いまさらながら大変感謝いたしている次第です。
よくあなた様のお名前をお聞きしておりました。さぞや、何かとわがままな主人に付き合っていただけたことと思います。ここに主人に代わって、改めて御礼申し上げます。
ところで、突然お手紙で失礼かとは存じますが、先日、時計の件で修理室の方から電話をいただき、なんでも7月に主人が修理に出した品が仕上がったとのこと。さっそく、主人の通勤鞄を調べましたところ同封のような受け取りが出てまいりました。多分、これは主人が好んではめていた古い腕時計なのではと思われます。
しかし、私どもには、どんな修理だったのやら、大体どんな型の時計だったのかすら見分けも付きません。
そんなとき、いつだったか、今思えば多分その修理に出したときだったのでしょう。あなた様に付き合っていただいた旨、大変有り難く申していたことを思い出しました。
重ね重ね申し訳ありませんが主人に代わって受け取っていただけないでしょうか。そして、差し支えなければ、そのままお納めいただけないでしょうか。私どもは今もって「遺品」や「形見」として納めることができないような気がいたします。
修理代につきましては、さっそく本日書留郵便にて、修理室は遠藤様宛発送いたしました。
受け取りにつきましては、急がれなくとも差し支えない返事もいただいております。なにかのついでにお寄り願い、納めていただければ幸いでございます。
記憶は胸に生きながらえんとも
物は故人を語らず
止まったときのみ刻み逝く
妻 晶子 9月吉日
敬具
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手紙を読むうち、私の気持ちは固まりました。
蒸し暑かった夜、偶然、時計店に同行させてもらった事実もなにかの縁。それを受け取りに行くのもやはり縁なのでしょう。しかも、彼がいない今となっては、私にとって当然の役目かも知れません。今ここにあのロンジンは私の手を借りて、ようやく落ち着こうとしているようです。