TRAVELER'S notebook Users Posts(2007-2023)
『遠出・1』

『遠出・1』

2010/05:STORY
Hide

 夏休みに入り通勤電車の中で学生の姿をほとんど見かけなくなった。代わりにスーツケースを引いている家族連れや早目の夏休みを取ったような人達を見かける。大学生になった頃から旅行といえば海外で行き先は必ず欧米だった。社会人になってアジアも面白いと思えるようになった。国内にも素晴らしいところがあるには違いないが、国内を旅するのはリタイアしてからでいいとずっと思っていた。2002年にサッカーのワールドカップの仕事で札幌・大分・仙台・大阪・埼玉・横浜を回った時に国内も面白そうだなと思った。
 昨年12月の一日、学生の頃からの親友Jから「札幌からししゃもが届いたから食べに来い」と連絡があった。Jとはその一月前に約7年振りに再会し、餃子で有名な浅草の「末ッ子」で食事をした。その時にかつての赴任先であった札幌の知人からししゃもが届いたら連絡すると言われていた。僕の他にも何人か来るとのことだったので、Jのところへ行く前日に「末ッ子」へ行き、Jが夢中で食べていた餃子を生で手土産に買った。店の女将さんが気を利かせて保冷バッグに詰めてくれた。
 Jは今大阪に単身赴任しているが、自宅は神奈川県の葉山にある。連絡を貰って都合を合わせた日に総武快速線に乗って逗子まで行き、逗子駅まで迎えに来て貰うことになった。逗子までは最寄りの駅からJR線に一駅乗って総武快速線に乗り換えればいいので楽だった。我々東京の下町に住んでいる者にとって「お出掛け」というと行き先は銀座や浅草で、「遠出」というと関東近県に行くことだと何かで読んだ気がした。もしくは今で言うところの山の手に住んでいる人達が「川向こう」(隅田川より東)と呼ばれている我々が住んでいる下町までやってくることを「遠出」と言ったのかも知れない。諸説ありそうなので今度調べてみよう。そんなことを思いながら総武快速線に乗って窓の外を眺めていた。品川を過ぎたあたりからだんだんと見慣れない風景になってきた。横浜までは行くことがあるが、それも年に数回だ。車窓から射し込んでくる冬の柔らかい日差しが心地よかった。目に飛び込んでくる駅名や地名から、「営業の○○さんはこんなところまで来ているんだなあ」とか「誰々さんが住んでいるのはこのあたりなんだなあ」等と思っているうちに逗子に着いた。車中で読むつもりだった本も持っていたiPodも必要なかった。 車窓から外を眺める楽しさを再認識した。普段利用している駅からわずか一時間先には未知の世界が広がっていた。これはたまにやってみたら面白いかもしれないなと思った。
 逗子駅の外に出るとJがバイクで迎えに来てくれていた。Jの後ろに乗り葉山の自宅まで向かった。しばらくすると景色も空気も変わってきた。Jの自宅は海まで徒歩で5分とかからないところにあった。すぐ近くには御用邸もある。辺りは緑も豊富だ。自宅のフローリングは見事に磨き上げられていた。Jはフローリングを磨くのが大好きだと言っていた。幼い頃はご尊父のお仕事の都合で海外に住んでいたこともあり、学生時代はラグビーの日本代表で世界中を旅し、今でも長めの休みが取れれば海外に行くそうだ。そういった経験から身に付いたのであろう趣味の良さが香港のエルメスで40万円で買って自分で持ち帰ったというアンティークの自転車や、場所は忘れたが海外で買ってきたというこれもアンティークのレジスター等海外で入手してきたものが上手に飾られているところに表れていた。Jが海外から集めてきたものが飾られているリビングはちょっとした博物館だった。そういえばJが学生の頃乗っていた車はフォルクスワーゲンのビートルだったなあと思い出した。食事を始めるにはまだ早かったのでJは海まで案内してくれた。風は強かったが快晴だったので景色は最高だった。そこから最寄りの大きなスーパーへ行った。するとJは勝手知ったる店内を歩いて魚屋へ行き、「捕れたての鯵があれば握ってください」と店員に言った。少々待つことを承知して捕れたての鯵を握り鮨にしてもらった。スーパーでこういうことが出来るのだと知って感心した。
 札幌から届いたししゃもは普段食べているものとは違い大きくて美味しかった。ししゃもにも雄と雌がいて味が違うということらしいが、その違いは今ひとつ分からず、ただ美味しかった。ビールも飲んだが、Jが自慢のワインセラーから選んで抜いてくれたワインが美味しかった。何のワインだったかは忘れてしまったが、きっとJが海外のどこかで飲んで美味しかったので取り寄せたものだろう。Jはそのししゃもを食べ慣れているためかあまり食べずに、僕が持って来た餃子をホットプレートの上で焼いて夢中で食べていた。スーパーで握ってもらった鯵の鮨もこれだけ食べにまた来てもいいと思えたくらい美味しかった。最寄りの駅から僅か一時間で、海が見られて、普段あまり口に出来ない美味しいものを食べられたという体験は何か新しい楽しみを発見した気になった。僕にとってこれは立派な小旅行だった。
普段降りている駅のずっと先の駅で降りてみるとこういう楽しみに出会えるのかなと思った。上りも下りもあるからここぞと思えるところはたくさんあるだろう。期待外れだった場合の帰り道は果てしなく遠く感じられそうだが、それは海外旅行でもあることだ。子供の頃初めて手に入れた自転車でワクワクしながらどんどん遠くへ行った感覚が甦りそうな気がした。
 今年の1月に連休を利用して帰ってきたJと食事をした。日本橋小伝馬町で僕の親戚が60年営業している上海料理屋に初めて案内した。大昔薬局だったという築80年のその建物は建物自体がアンティークで、ビルばかりの江戸通りで異彩放っている。Jはすっかりその店が気に入ったようで、知り合って20年以上も経つのに何で今まで連れてきてくれなかったんだと僕は叱られてしまった。甕出しの紹興酒を飲み、三代目の店主である従兄に任せて次々と出てきた料理を食べながらJは「夏はうちでバーベキューやるからな。連絡するから来いよ」と言った。7月末の今日現在まだ連絡はない。冬に車窓からみた風景はこの夏どんな感じになっているのだろう。海はどうだろう。
 また何か新鮮で今まで食べたことがない美味しいものが食べられるのだろうか。この夏の思い出になりそうな次の遠出が楽しみだ。