

『On The Road・2』
9月に入りアメリカではNFL(プロのアメリカンフットボール)が始まった。MLB(大リーグ)ではプレーオフ進出チームがほぼ決まり、シーズンの終わりが近付いて来たこの時期にもう一つの人気プロスポーツが始まるのである。NHL(プロのアイスホッケー)とNBA(プロのバスケットボール)もNFLの後を追うようにシーズンインしていく。NFLは各チームがレギュラーシーズン16試合を戦い各リーグ計4地区の優勝チームにワイルドカード(優勝チームに準じて成績の良かったチーム)を得たチームでプレーオフを戦い、勝ち抜いてきたチームがスーパーボールに出場出来るのである。他のスポーツと違い、プレーオフでもスーパーボールでもそれぞれ1試合しかやらないところが僕は魅力の一つであると思う。レギュラーシーズンでも1週間に1試合。ボールを持った格闘技でもあるので、選手の体調を考えたら連戦は不可能なのも1試合しかやらない理由の一つだろうとも思う。
「On The Road 1」に書いた2002年FIFAワールドカップの仕事のゴールが見えてきた6月末頃、その仕事をお世話して下さったK社長からNFLの仕事のオファーをいたいた。期間は8月の中旬の5日間、場所は大阪、仕事はプレシーズンマッチ(オープン戦)でやってくるワシントン・レッドスキンズもしくはサンフランシスコ・フォーティーナイナーズの用具担当マネージャー付きの通訳であった。ワールドカップの仕事は過酷だったのでチャンスがあってもしばらくスポーツの現場に関わる仕事からは離れたいと思っていたが、NFLと聞いて「やります」と瞬きするより早く答えていた。破格のギャラも魅力だったが、チームに直接関われてNFLの舞台裏を覗けることがもっと魅力的だった。
ワシントン・レッドスキンズの担当に決まり、2002年8月中旬新幹線で大阪へ向かった。大阪へは同年6月のワールドカップの時に訪れて以来だった。以前勤めていた会社の出張で大阪は何度も訪れていたが、会社員の時、ワールドカップの時、NFLの時とこちらの置かれている状況が違っていると同じ風景でも不思議と異なって見えた。さらに街の印象も変わって感じられた。
最初の仕事は他のスタッフとともに関西国際空港でチームを出迎えることだった。
僕が付いた用具担当のマネージャーBrad氏は4人の部下を引き連れていた。気さくなBrad氏は自分に専属の通訳が付くことを事前には知らされていなかったようでとても喜んでいた。翌日(試合前日)から早速練習があるのでホテルに荷物を置いて会場の大阪ドーム(現京セラドーム)へ向かった。予め業務も手伝うことになるかもしれないと言われていたので、それなりの用意もしていた。必要であれば業務を手伝うことになっている旨をBrad氏に伝えると喜ばれた。ブルペン(投球練習場)に用意されたロッカールームに選手それぞれのユニフォームやヘルメット等を用意していった。ヘルメットが並び、ユニフォームが掛けられていくに従いそこが大阪であることを忘れていった。NFLの本場へトリップしたような気分になった。作業を手伝う段階になってBrad氏がTシャツをくれるという。このシーズンからR社がオフィシャルスポンサーになり、選手・スタッフが身に付けるものは全てR社が賄うようになった。サイズを聞かれたので通常より大きいフットボールサイズを想定して「Mをお願いします」と言った。Brad氏は「そんな小さいサイズはないよ」と笑いながら言いXLのものを一枚くれた。その後も毎日作業を手伝う度に支給してくれたXLのTシャツは肩の位置が肘まできてしまうものばかりだが今でも大切にしている。チームスタッフと同じものを身につけるとさらにそこが大阪であることを忘れてしまった。練習後のユニフォームを洗濯するためにクリーニング業者が引き取りに来たときに洗濯上の注意を通訳した。アメリカでの温度は華氏、日本では摂氏。洗濯の際に注意する水温の問題が出たが、華氏から摂氏の換算は会社員時代に常に行っていたため暗算でも出来る位だったので何も問題は無かった。こういうところがアメリカと仕事をしているのだと自覚させてくれる。N社のシューズしか足に合わない選手が一人だけいた。契約の問題でR社以外のシューズが全米中継で映ると問題らしく、N社のショップとラインを消すスプレーが手に入るところを探すように言われた。東急ハンズの場所はワールドカップで訪れた時に知っていた。N社のショップはホテルのコンセルジュに調べてもらった。どちらも心斎橋にあって緊急事態はあっという間に回避できた。それぞれ、用具担当スタッフ皆で回ったので、初来日の彼らにとっては滞在中唯一のちょっとした大阪観光になった。東京生まれで東京育ち、さらに東京在住の僕が始めて日本に来たアメリカ人達を引き連れて大阪の街を歩いているなんて不思議に思えた。スムーズに仕事が進んだのでBrad氏が皆で食事に行こうと言った。リクエストはやはりHRCだった。食べ慣れた「アメリカごはん」を満喫した彼らの内何人かは「お約束」通り併設されているグッズショップへお土産を買いに行った。お小遣いの都合がつかない何人かは外で待っていた。HRCはこのプレシーズンマッチに協賛していた。お店のマネージャー氏が、我々がレッドスキンズのスタッフだと気が付くとグッズは全て30%引いてくれると申し出た。外でつまらなそうにしていた何人かにその旨を伝えるとショップへ大急ぎで駆け込んでいた。彼らが不慣れな日本の街中で迷子になってもすぐに僕が見つかるようにその日支給されたXLのTシャツにパスをぶら下げていたのが功を奏したようだった。食事の後でBrad氏だけ一人ドームへ戻った。その年チームは創設70周年を迎えていてヘルメットもユニフォームも特別仕様のものを身に付けることになっていた。彼は全てのヘルメットを70周年記念仕様にするために戻り、誰にも手伝わせなかった。翌日全てのヘルメットが寸分違わず仕上がっていた様子は圧巻だった。
試合当日僕を大阪に居ることを完全に忘れさせてくれたことが起こった。Brad氏が「Hideさん、ロッカーを用意しておいたから着替えてね。」と言った。単なる通訳の僕の分もコーチ陣やワシントンから一緒にやって来た他のスタッフと同じようにロッカーとフィールドで着用するキャップとウェアが用意されていた。キャップには僕のイニシャルが書き込まれていた。これには心から感動した。相手方サンフランシスコ・フォーティーナイナーズのオーナーの専属通訳をしていたMさんによると、何度も日本で行われてきたプレシーズンマッチに関わってきたがこういったことは無かったそうである。ビールが大好きで多数の有名ミュージシャンの通訳を経験していて、毎年必ずニューヨークに行くMさんと会ったり話したりする機会があると必ず、Mさん曰く「涙のロッカールーム物語」のこの話になる。試合開始直前のフィールドでの国歌斉唱は選手達と並んで聴いた。テロの被害にあって間もないアメリカ人達と、テロで失業した僕が並んでアメリカ国歌を聴いているなんて何だか不思議だった。試合中はフィールドとロッカーを何往復もした。
今ではもうチームに30年もいることになるTomさんが、「チームスタッフとして関わった日本人はHideが初めてだよ。」と言っていた。チアリーダーとプレイヤーには日本人はいたがスタッフでは初めてのようだった。スタッフ皆とは仲良くなれたが、このTomさんとは特に仲良くなり今でもメールで近況を報告しあっている。彼が僕に言った「初めてアジアに来たけれどHideのお陰でアジアが好きになったよ。」という言葉は今でも忘れられない。毎年送っているクリスマスカードは日本のテイストが溢れているものを選んでいる。
仕事を無事終えて帰京する新幹線に乗った時に、自分が居たのはワシントンではなく大阪だったのだと現実に戻った。これが飛行機での帰京だったらもう少しこの不思議な感覚が続いたのかも知れない。ブラックとシルバーを基調にしたロサンゼルス・レイダース(現オークランド)のチームカラーが好きで、キャップやTシャツ等をいろいろと持っていた。
帰京後それらを全て弟にあげた。翌日からバーガンディーとイエローが基調のレッドスキンズのものを集め始めた。
ワシントン・レッドスキンズと出会ってから3年後の一昨年8月、今の仕事でワシントンへ出張する機会があった。スケジュールの都合で当時のスタッフ達に連絡することが出来なかった。後でTomさんに僕が居たところは彼らが居るところから車でたった1時間の距離だったと教えてくれた。今シーズンのレッドスキンズは今のところ2勝1敗と好調だ。もし、レッドスキンズがスーパーボールに進出したら必ず観に行こうと思っている。スーパーボールへの旅が仲良くなった彼らとの再会の旅となったらこんなに素晴らしい旅はないだろう。