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「旅の筆跡」

「旅の筆跡」

2012/09:STORY
夜行性


仕事のあと、時々そのカフェに寄るのが好きだった。
コーヒーくらい家でも飲めるが、夜遅く、人気もまばらな店は、仕事からも生活からも切り離された、不思議に寛げる場所だった。
その日はずいぶん疲れていたと思う。
買い物をして帰るのも、食事の支度も、それどころか何かを食べるのさえ面倒な気分だった。
だからすぐにベッドへ倒れこんで眠りに就きたいかというと、それも少し違った。
疲れすぎて、かえって意識が際立つことがある。今すぐにスイッチを切ってしまいたいが、熱を持っていて、少し冷めるまで待たなければいけない。
誰とも話さず、テレビも見ず、ただ静かに革のソファーに沈んでじっとしていたかった。
だから、いつもの電車は見送って、寄り道をした。
それほどコーヒーにこだわりはないが、頼むものはいつも同じだった。
行くたびに入れ替わっている季節の新メニューが気になっても、今日はこの時間を台無しにしたくない。
結局いつもそう思うので冒険は後回しのままだ。
いつものコーヒーを注文し、カウンターでそれが作られるのを眺めながら、立ち昇る湯気と温かくて芳しい空気を、こっそりと胸いっぱいに吸い込んだ。
コーヒーを受け取ると二階に上がった。テラスに面したソファーが一番気に入っている。
時間はもう真夜中に近くて、外のテラスには出られない。
天井まで一面の大きなガラスの扉は閉じられているが、その誰もいないテラスに向かって座る席だ。
この時間、特に二階は人も少なく、客と店員の注文のやり取りの声も届かないのが良かった。
勝手に自分の席と決めているそのソファーは今日も空席で、私が座るのを待っていた。
コーヒーを載せたトレーを小さな円いテーブルに置こうとしたその時、初めてテーブルの上に何かが置いてあるのに気がついた。
濃い茶色のテーブルに色が重なって遠目ではそれとは分からなかったが、茶色の革の表紙に包まれた、少し古ぼけたような本が一冊、そこにあった。


ああ、先客があったのか。小さく息を吐いて、気に入りのそのソファーの隣の席へ落ち着くことにした。
ソファーもテーブルも隣と同じ物が並んでいる。
ただ置かれた場所が少し違うだけなのだ。だから隣の席でも思う存分寛いで、ボーッとして、いつも通りに過ごせるはずだ。
ソファーに自分の体を深く押し込んで、やっと一息ついた。身体中の力を抜いて体重を全てソファーに任せると、時々カップを口に運ぶ以外はほとんど何もしなかった。
今日あったことを思い出したり、明日起こることを予想するのをやめた。
ただひたすらボーッとする。そうしてコーヒーの残りはカップの三分の一ほどになり、もう冷めてしまった。
隣のテーブルの上には本がそのまま置かれ、持ち主の姿はまだなかった。横目に本を見やり、その後少し目を閉じた。
眼球の奥が熱くなり、涙が絞り出されるような感じがした。疲れているんだな、改めてそう思った。


まるで水の中に沈んでいて、外で誰かに呼ばれたような気がして目を開けると、背後の少し離れた席で、店員の女性がテーブルを拭いていた。
ほんの一瞬目を閉じただけのつもりが、もっと長い間だったらしい。
眠ってしまったようだ。時計を見ると針が15分ほど進んでいた。
じきに閉店の時間だ。もうすっかり冷たくなったコーヒーの残り二口ほどを飲み干して、伸びをしながら見回すと、来るときに見かけた大学生らしい男性客やカップルもいなくなって、二階にいるのは私だけだった。
なので遠慮もせずに深呼吸をし、さて、と声を出すと、胸ポケットと鞄の中を確かめて帰り支度をした。
立ち上がる前にふと隣を見ると、円いテーブルにはまだあの本が残されていた。
てっきり誰かが席を取るために置いた物と思ったが、忘れ物だったらしい。
そろそろ店内では閉店の片付けが始まるだろうから、そのままにしておいても店員が気づくだろう。
この場に持ち主がいないと分かったので、改めてまじまじとその本を観察した。
古ぼけて所々に傷も目立つ茶色の表紙は、まるで古文書のような、何か重大な秘密が隠されているような、そんな雰囲気だった。
もしかしたら宝の在処が記されているかも知れない、などと想像させる貫禄だ。
よく見ると、それは製本され本屋で売られている、いわゆる本ではなかった。
紙のページは僅かに不揃いで、白いページもあれば茶色のページもあった。
そして付箋やら切り抜きやらがたくさん挟まっているらしく、ずいぶん嵩張っていた。
スケジュール帳や日記帳の類いか。
見た目からして、持ち主はその手帳を愛用しているようだし、大切な物だろう。
身の回りの些細な出来事から重要な予定まで、残らず詰め込んであるに違いない。
それほど、その手帳は分厚く膨らんで存在感があった。万が一にも紛失しては気の毒だ。
きっと今頃この手帳がないことに気づいて慌てているかも知れない。
確実に持ち主の元に返してやりたい、そう思って私はその手帳に手を伸ばした。
直接店員に忘れ物として届ける方がいいと思ったからだ。
手が触れた革の表紙は見た目よりずっと柔らかだった。少しくたびれたように手に
馴染んで、しっとりと気持ちの良い触り心地に驚いた。
そうして持ち上げてみると、ずっしりとまるで辞書のように重かった。
その時、表紙を留める紐がきちんと掛かっていなかったのか、手帳はパラリとページが乱れて、中に挟まっていた紙片が一枚ひらりと落ちた。
慌てて拾い上げるとそれは写真だった。


不意に現れたその人物がこの手帳の持ち主だろうか。
ほんの少し気が咎めながらも、その写真をじっと眺めた。
女性がひとり、海を背にして笑っている。じっと大人しくポーズを取っているような写真ではなく、女性はカメラに向かって手を伸ばすような格好だった。
散歩の途中、強い風が吹き彼女の髪をくしゃくしゃと撫でた、そんな瞬間が四角く切り取られていた。
旅先での風景だろうか、空の青は、ありったけの黄色い絵の具を混ぜたように眩しく、空と海の境界も見えない。
どこか遠い国なのだろう、とてもその海が、私の知る海と繋がっているとは思えなかった。


まったくの他人と、異国の景色。
それなのに何かを思い出せるような錯覚で、その写真から目が離せなかった。しば
らくその写真を手にしたまま身動きできずにいると、背後でカタン、と椅子を動かす音がしてやっと我に返った。
音のした方を見ると、店内はもうすっかり閉店作業の最中だった。
故意でないとはいえ他人の写真を覗き見るなど自慢できた話ではないので、慌てて写真を手帳に挟み直して留め紐をしっかり掛けると、右手にトレーを持ち左脇に手帳を抱えて席を立った。
トレーを返しゴミを捨てると一階に降り、レジカウンターにいた女性店員に、忘れ物です、と言って手帳を差し出した。


そんな忘れ物に出会ったのはもう三ヶ月ほど前になる。
その後、あの写真の海がどこなのか知りたくて、本屋があれば立ち寄り、海外のリゾートを特集した雑誌や写真集などをいくつか見たが、あの美しい海と空はどこにもなかった。
写真を一枚見ただけで、場所が分かるはずもなかったが、せめて似た風景があったなら、そう思った。
結局見つからず、仕事の忙しさも増して、あのカフェにはあれから行っていない。
他人の手帳を盗み見た後ろめたさもあっただろうか、しばらく足が遠のいていた。


今日、ふとあの景色のことや、忘れられた手帳のことを思い出したのは、同僚が休暇で訪れた場所の紹介記事をブログで公開している、と話していたからだ。行った場所や食べた物などを写真に収め、思い出とともにアルバムのようにまとめているそうだ。
久しぶりにコーヒーでも飲みに行こうか、そう思った。
仕事も定時で片付いたので、本屋で適当な月刊誌を買って、あの店へ行った。いつもここへ来るのは深夜だったが、今日はだいぶ早いせいか、思いのほか混んでいてまるで違う店のようだ。
注文するのにも二、三人が並んでいたので私も列に加わった。いつもはろくにメニューも見ずに注文していたが、今日はじっくりメニューを見る余裕があったので、初めていつもとは違うものを頼んだ。
出てきたものは、いつものコーヒーとは違って少し甘い香りがした。
受け取って、二階のあの席へ向かったものの、これだけ混雑していては空いていないだろう、と階段を上りながら考えた。
やはりほとんどの席は埋まっていて、一人掛けの席が僅かに残っていたので、雑誌とコーヒーのトレーを置いてどうにかそこに落ち着いた。
いつもより4、5時間早いだけで、これほど雰囲気が違うものかと思った。
コーヒーに口を付けると、それは予想以上に甘くて驚いたが、まあ、悪くもない。
雑誌をデタラメにめくり、一通り目を通したあと、解放されたテラスの席を眺めた。
まだ秋になる前のこの季節、日が暮れたあとの涼しい風が心地良さそうだった。
そのテラスに向かったあのいつものソファーにも、女性がひとり座っていた。
左手に大きめのカップを持ったまま、うつむいて熱心に何かを書いているようだった。白いシャツの尖った襟が清々しく、美しかった。


人の多い店内は賑やかで観察の対象に不自由しなかった。
周囲を眺め終わると、広告ばかりの雑誌にも飽きて少し空腹になってきたので、欠伸をすると雑誌を丸めて席を立った。階段に向かうせまい通路の途中で、人とすれ違う時に少し体を反らせて避けると、ちょうどあのソファーの席のテーブルを覗き込むような格好になった。
女性は両手でカップを支えながらゆったりコーヒーを飲んでいた。
そのテーブルの上に置かれたペンと、隣の手帳を見て私は驚いた。
見覚えのある、あの茶色い革の手帳だった。どこにでもありそうに見えて、それでいて見間違えることのない不思議なあの手帳。咄嗟に持ち主の女性に視線を移したが、口元に運ばれたカップに隠れてあの写真と同一人物かどうかは分からなかった。
だがむしろそれで良かったのだろう。ジロジロと不躾に見ていたことを気づかれずに済んだのだから。
妙に緊張しながら、飲み終わったカップやゴミを片付けた。
彼女があの夜の忘れ物の持ち主だ。そう思うとなんだか嬉しくなった。まるで自分のなくし物がやっと見つかったような気分だった。
階段を降りる足が早まった。やはりあれは彼女の宝の地図だったのだ。うっかり見落とすようなとても小さな手掛かりを、彼女は丁寧に集めてあの手帳に記しているのだ。私は急に彼女が羨ましくなった。そして何故かとてもワクワクしていた。
今にも走り出しそうなくらい足取りが軽くなった。


明日、休暇を取って旅に出よう。残念ながら私の地図はまだ白紙だが、きっと旅先でたくさんの発見があるだろう。だからペンとノートを忘れずに鞄に入れよう。旅から戻るとき、たくさんの宝物を持って帰れるような、そんな気がする。