

『日常生活・1』
留学やホームステイ、長期出張等で海外での滞在が長くなると、普段日本で習慣にしていることを現地でしなければならなくなる。その中で意外に大事なことは散髪ではないだろうか。その旅を機会に髪を伸び放題に伸ばして長髪にするつもりでいる場合は別だが。
旅先での生活に慣れてきて、余裕が出てきた頃に、ふと気づくのが髪の毛をどうしようかということになったことがある方も多いだろう。
大学2年生だった1987年(数字にしてみると凄く昔だ。書いてみて思い知った。)にイギリスのコルチェスターにある語学学校に一ヶ月通っている時の一日、散髪に行きたくなった。別にこちらの希望が上手く伝わらず、思い通りの髪型にならなくてもいいから散髪をしたくなった。失敗したらしたで、それはいい思い出になるし、「旅の恥は掻き捨て」で上等だと思った。但し、せっかく冒険をするなら、コルチェスターではなく、ロンドンで散髪しようと思った。散髪した結果が思い通りであってもなくても、その髪型は時間とともに変わってしまうけど、「ロンドンで髪を切った」という事実は残るからだ。伸びてきて鬱陶しくなってきた髪を切りたかったのもあったが、当時20歳になるかならないかの僕には、ロンドンで髪を切ったことがあるという、今後語れる事実が欲しいというほうが大きかったのだ。
情報を収集した結果、いろいろなことが分かった。イギリスの床屋では、髭剃りはしてくれない、シャンプーも基本的に無くて、必要なら別料金等。それから、当時のイギリスでは、現在はどうか不明だが、美容師になるには試験を通らなければならないが、理容師は試験を通らなくてもなれるということも知った。要するに美容院で仕事をするには試験をパスしなければならないが、床屋で働くには試験は不要ということだ。国が変わると事情が違うのだなあとその時に思ったことを覚えている。
コルチェスターから電車でロンドンへ出て目ぼしい床屋を探した。所謂美容院は結構あったが床屋は簡単には見つからなかった。よく考えてみれば、銀座や表参道で、美容院ではなく床屋を探しているのと同じなのだから、簡単には見つからないはずなのだ。
ソーホーの辺りで一本静かな通りに入った所で一軒床屋を見つけた。あと何軒か見つけたと思うが、その一軒が何となく信用できそうな気がしたのだ。ここだと決めてしまえば、後は実行あるのみ。入店して、予約はないことと、この髪型で少々短くして欲しい旨を告げた。
ほとんど待たされることなく、多分万国共通なのだろう、鏡の前にある床屋特有のあの椅子に案内された。シャンプーは無いと聞いていたが、記憶を辿ると、確か最初にシャンプーをしてくれたと思う。シャンプーが終わるや否や、適当に乾かして散髪が始まった。理容師は何の迷いも無いように躊躇することなくドンドン切っていった。耳元で鳴る鋏の音がとても小気味よく、テンポもよかったので最初は安心していたが、あまりにもスムーズに進むので段々と不安になっていった。そういえば、店に入った時に、見慣れない東洋人を見るような視線を感じなかったよな・・・それに細かい事も聞かれなかったなあ・・・、ああ、ここはロンドンだからだろう。だから黒髪といっても珍しがることなくどんどんと切っていっているのだ・・・等と考えて、散髪の最中は不安と期待が入り混じった心境で、まさに俎板の上の鯉状態であった。
日本の床屋のように髭剃りが無く、髪の毛のカットだけなので、あっという間に終わった。散髪後のシャンプーも無かったと記憶している。出来上がりを鏡で確かめると悪くはなかった。代金を払って外に出ると何だかホッとした気持ちとサッパリした気持ちが入り混じった。ホッとした気持ちは、きっと、初めておつかいが出来た子供の達成感に似たものだったのかもしれない。
日本で普段やっていることを外国でも出来たので、将来外国でも暮らしていけそうだなんて、店を出てロンドンの街を歩きながら大胆なことを考えていた。これを書きながら当時の自分を思い起こして、若いって凄いなと改めて思った。ちょっと冷や汗も出た。
一人で出掛けて行って、いろいろな体験をすること、出来ることが、旅のいいところであり、好きなところだと思えるようになったのは、こういう体験を重ねてきたからだ。
普段自分が自国でやっていることを、現地の人達と同じように外国で行うのは本当に面白かった。今はインターネットが普及しているから、多くの人は自国の美容師や理容師がいるお店を探して訪れるのだろうか。それとも、あえてローカルなところをインターネットで探して訪れるのだろうか。今後もし海外に長く滞在する機会があったとしても、僕は自分の足で、その国の人が営んでいる床屋をワクワクしながら探して髪を切ってもらうと思う。
翌日授業に出ると、僕が床屋へ行ってきたのを見て、クラスメート達が驚いていた。
偉いとか勇気があるとかいいコメントをたくさん貰った。
担任の先生がニヤリとして、「体調が悪くて休んだ筈なのに何で髪型が変わっているのだ」と聞いてきたときにはドギマギしてしまった。答えに困ったことは覚えているが、何と答えたかは覚えていない。授業をサボった罰として、同じ床屋へ行って坊主にして来いと、先生に言われなくて安堵したのは今でもハッキリと覚えている。