
『行きタイ』
昨夏の一日、以前勤めていた会社の先輩Kさんからメールをいただいた。そのメールには約30枚の写真が収められているリンクが貼られていた。そのリンクをクリックすると写真のスライドが一覧となって出てきた。Kさんがある土地へ家を建てるボランティアをしに行った時の写真だった。ワールドワイドな会社らしいボランティアで、参加している方々の国籍は、写真から察するに、多岐に渡っているようであった。詳しいことは分からないが、その時にボランティアが行われた場所はタイの郊外だったようだ。写真を見ながら真っ先に思ったのは、Kさん変わらないなあということよりも、空が青くて大きいなということだった。景色ものんびりとしたいい感じだった。都心のバンコクもいいが、このように空が青くて大きく、のんびりしたところなら、久々にタイに行きたいなと思った。
トラベラーズノートのプロデューサである飯島淳彦氏のブログに出てきた、氏のチェンマイでの常宿をいつか訪れてみたいと思っていた。総客室数は8室、滞在中毎朝供される丁寧に作られた朝食、心地良さそうなプールサイド等、文面と写真からとてもいい雰囲気が伝わってきた。
7月末までに消化しなければならない今期のリフレッシュ休暇は、紆余曲折を経て、今まで一度も訪れたことがないチェンマイに行って過ごすことにした。チェンマイに行く事を決める途中から、いろいろと情報を集めた。これが結構少ないのである。チェンマイだけ独立したガイドブックはないし、旅に役立ちそうな本も数冊しかなかった。飯島氏の常宿も、手に取ることが出来たガイドブックには載っていなかった。情報を集める段階でこういう状況になるとますます行きたくなってきた。航空券と宿泊を、同じ条件で大手旅行代理店やタイに特化している旅行代理店等に当たってみた。一番安く確実に同じ条件での航空券の入手は、現在勤めている会社の入っているビルにある小さな旅行代理店で、ホテルはホテルに直接コンタクトをしたら、通常料金より40%割り引いてくれた。トータルでは同条件で某大手旅行代理店提示の半額であった。とにかく調べられるだけ調べてみるものだということを再認識した。この航空券と宿泊先の手配の過程で、旅先で買い物をする時に、同じ品物を数店見比べているような錯覚に陥った。プランの段階から旅は始まっているのだから当然の展開なのかもしれない。
リニューアルして国際線の離発着枠が広がった羽田空港から今回初めて国際線に乗ったが、羽田は成田より自宅から近いし、アクセスもいいので本当に便利だった。これだけ便利なら、流行っているという、仕事の後で金曜日の夜に羽田を出発し、週末を海外で過ごすことは十分可能だと実感した。
バンコク経由でチェンマイに到着し、ホテルにチェックインしたのは、そろそろ午前10時になろうとしている頃だった。まだ朝食を用意してくれるというので、プールサイドでゆっくりと待っていた。ホテル内もホテルの周りも静かなところなので、時間の流れが確実に違うのが感じられた。何だか落ち着くなあ等と思いながら、卵二つの目玉焼きにソーセージ、ハム、ベーコンが添えられたアメリカンブレックファストを、濃いコーヒーとともにゆっくりと食べた。
全部で8室しかない客室の、2階にある一室が僕の部屋だった。建物は2階建てなので、当然エレベーターはない。部屋の鍵は観音開きの戸をピッチリと閉じて差し込む大きな南京錠だった。カードキーのホテルに慣れた身には新鮮だった。南京錠を掛ける度に戸締りを実感できた。
写真のプールサイドで本を読みつつウトウトしてしまった。いつもの旅のようにキッチリと予定を立てることはしなかったので、この「本を読みつつウトウト」が心地良く、滞在中毎日やってしまった。
そろそろ出掛けようと思い、地図を片手に町歩きを始めた。普段とは異なる景色の中を歩いてみると、目的地は地図で見るよりずっと遠かったり、辿り着けなかったり、旅ならではの展開の中にどんどん巻き込まれていった。信号が無く、車とバイクが途切れることなかったためなかなか通りの向こうへ渡れなかったり、トゥクトゥクがなかなか来なかったり、不便を感じて普段の生活ならイライラし通しの状況も、キッチリと予定を立てていたわけではなく、急いでもいなかったので、不思議と何とも思わなかった。車とバイクの波が落ち着くのを待っている間、この交通状態の中をホテルで自転車を借りて走ったという飯島氏のことを思い出して感心したり、こういう中で日常生活を送っている人達もいるのだなあ等と考えていた。そうしているうちに、きっと何回か横断できるチャンスを逃していたかも知れない。
滞在中の一日に土曜日があり、ホテルの前の街道が夕方から夜遅くまでストリート・マーケットになった。交通が遮断された道の両側に出店が少しの隙間も無く並んだ光景は圧巻であり、マーケットの人込みの中を歩いていると外国を旅している気分が高まった。
帰国前日に、ホテルのフロントでスタッフの人達に、飯島氏がそのホテルのことを書いたブログをプリントアウトしたものを見せて、どうして僕がここに来たか等を話した。レストランの責任者であろう女性スタッフが、翌朝出発が早い僕を気遣って、サンドイッチをランチボックスにして用意しておいてくれると言ってくれた。チェックアウトの時に渡してくれるとのことであった。便利でサービスが行き届き、宿泊費がこのホテルの倍以上するホテルでも、例え滞在中にチップを弾んだとしてもこんな心遣いはして貰えないだろう。日本でも、古き良き時代の旅館は、きっとこのようなサービスをしていたのではないだろうかと思った。旅をしていてこういう心遣いを受けると何とも言えない気持ちになる。
今回のリフレッシュ休暇が、今までで一番心身ともにリフレッシュ出来た。スケジュールに追われることなく、予定を未消化でもイライラせず、不便を楽しめたので、旅の仕方もリフレッシュ出来た気がする。
チェックアウトの時、前日の夕方からのシフトに入っているスタッフ氏(“スタッフくん”のほうがピッタリな風貌だった)が、僕のチェックアウトだけなのに、手続きに手間取っていた。彼が手間取っている間、背中で迎えの車のエンジン音を聞きながら待っていると、スタッフくんの後方に僕のサンドイッチらしい包みが見えた。隣にソーダの缶が添えてあったから間違いないだろう。しばらくして、手続きが終わった。スタッフくんは、心からほっとした笑顔で、「またのお越しをお待ちしています」と言った。彼はサンドイッチを手渡してくれなかった。チェックアウトの手続きで「いっぱいいっぱい」になってしまっていたのが見えたから無理もなかった。だから、僕も催促しなかった。そのことに対してイライラせず、何だか可笑しくなったのに気が付いた時、リフレッシュ出来たのだなあと思った。
今回食べたもの、観たもの等はまた改めて。