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ミッドナイト・ハイク 3・最終章

ミッドナイト・ハイク 3・最終章

2011/07:STORY
かわうそ

 

「ミッドナイト・ハイク 3・最終章」

 

 

 さあ、もう一駅。ふたたびながめた腕時計は2時半近く。道に迷った覚えもなく、そうぼんやり立ち止まった記憶もない。どうやら当初の目論見が甘く、距離も遠く、自然と所要時間も要することになってきたまでなのだろう。
 やがて目に入るのは「島崎藤村邸」。
 史跡・旧跡に事欠かないエリアにあきれてしまう。


    名も知らぬ 
     遠き島より 
    流れ着く 
     椰子の実ひとつ


 ますます、夜中の2時半に思い起こす歌ではない。
 これも中学時代の音楽で、歌った覚えのある歌詞なのだ。しかし、義務教育とはよく言ったもので、ろくに勉強もしなかった私の脳裏からすんなり思い浮かべられるところが教育たる所以である。当時、私は信州は松本という地方都市で教わった。当時の教師の一言までも思い出す。
「勉強は必ず将来、役に立つときが来ます」
 確かに私は今それを体験する思いがしている。知らなければ通り過ぎてしまい、足の痛みを紛らわすための術がなかっただけに過ぎないが、その記憶が残っていた驚きに意義を感じるのだ。
 島崎藤村という文豪は、確か私の郷里に近い木曾の妻恋宿辺りに記念館を訪ねた記憶がある。さあ、それ以上は未知なのだが、この歌はどこで流れ着いた椰子の実を発見したのやら、大磯の海岸では南の島より遠すぎるだろう。ヤツ自身にしても木曾の山奥からどこでどうなってここ大磯に流れ着いたとも知れないのだ。もともとここ大磯は、文豪や著名人が別荘として移り住んだ町。人生の成功者が余生を静かに送った場所だったのだろう。そんな界隈を夜中に歩いている私の身にもなってくれと言いたいところだが、当時の音楽の教科書にはこの歌の謂われもあったようにも思うが、私はそこまでの探究心がなかった。あんたは私のような愚行に染まった者などをみて、なんと思うだろう。


    名も知らぬ
     遠き駅より
    たどり着く
     見知らぬ駅


 「千曲川のスケッチ」という本を思い出す。
 なんでも、目に映る風景を正確に文章に表した作品とあったが、私には刺激に乏しく、実験的で、著名なタイトルの割りにほとんど記憶に残っていない本であった。
 しかし、今、見知らぬ道を歩きながら「目に映る風景を正確に文章に表した」気持ちもわからないでもない。確かあんたは懐古園のある小諸で教員をしていたときの日々をただスケッチ風に切り取った書き物だったと記憶している。単なる散文としか記憶がないが、もう一度通勤電車で読み返してやろう。
 いや、待てよ、この辺りの景色に思い出すことがあるのだ。
 それは昨年の春だったろうか、私はここを歩いて平塚まで戻った夜があったのだ。
 あの夜、私は電車で本を読んでいた。しかし、読み始めてしばらく、居眠りを始めてしまった様で、いつもなら寝過ごすはずもない内臓タイマーが、その読書時間分ずれたらしく、あわてて閉まりかけの電車のドアから飛び降りたのだ。そして、小1時間、平塚まで歩いた夜があった。そのときはあんたの旧家など立て札も眼に入らなかったと見え、通り過ぎていた。これも何かのチャンスか、もう一度電車で読み返せばとも思うが、また居眠りしてしまうことになりそうだ。よし、今度は図書館で朗読CDを借りて聞き返してやることにしよう。今は本など読まなくともプロの俳優・声優が朗読した物がCD化されていて、図書館に行けば著明な物はたいがいあるのだ。これなら私は当初から居眠り半分で聴いているだけだから乗り越す心配も要らないのだ。


 そして、私は思い出したように通勤カバンからレコードプレーヤーを取り出した。
 お気に入りの曲の合い間にそんな朗読CDを吹き込んでおいたことを思い出したのだ。
 吹き込んで聴いていたのは江戸川乱歩の「人間椅子」と「押絵と旅する男」。やはり地元の図書館で借りたCDをたまたまダウンロードさせてもらっていたものなのだ。深夜にトボトボ聴くのはさらに気が重くなりそうで、他にいいものを見つけた。
 「強力伝」と「八甲田山」。いずれも新田次郎の作品なのだ。
 「強力伝」は富士山の頂上へ重い資材を担ぎ上げる強力という荷役の物語だ。地元、御殿場の強力の中でも抜群の力持ちで有名であった強力の話だ。富士山での実績を買われ、風景指示盤を白馬岳に上げ、2年後に体をこわして亡くなった。180kgもある風景指示盤を白馬岳へ持ち上げたことを題材とした小説なのだ。


 これはいい。
 今まで歩き出して以来、何かに気を紛らわせてようやくここまでやってきた。
 以前に歩いた道のりを前にして、余計に気も重く、気力も底を尽きかけていた。
 よし、ここは主人公の伝説の強力、小見山正の力を借りてもう残りの4~5kmを制覇しよう。「強力伝」は短編で朗読は30分程度。できれば続く「八甲田山」死の彷徨・雪中行軍までには平塚入りしたい。実際私はこの作品を聞きながら歩き始めて、以前歩いた景色に何も感慨が沸かなかった代わりに、耳に伝わる「強力伝」の文章自体が歩くリズムに同期しているから、小説に臨場感を与えていることに驚かされるのである。
 やがて、私は伝説の強力、小見山正が白馬岳に無事、風景指示盤を担ぎ上げても着かず、続く八甲田山の物語、青森歩兵第五連隊が立ち往生する頃、ようやく平塚駅前の舗道に待つ我が自転車までたどり着くのである。
 しかし、そこに達成感は何もなく、ただ私はいつもの自転車にまたがり、さらに家までの2.5kmを風のよう走り抜けただけである。

 


 ミッドナイト・ハイク。
 それは達成感も感動もない。
 面白味に欠ける。
 労にして、益に薄い。
 しかも振返った事もない自身の正直な姿と、どうしても対峙することになる。
 そんなところから、大人のハイキングと呼ぶことができよう。できれば二度と参加したくない催しではあるが、義務教育の記憶と無駄を糧に変換する能力を養うことにより、もう一駅・二駅までなら達成できそうな可能性を見せる「業」である。

 


 ひとつ、不思議なのは、あの晩、降り立ったホームがいまだになんという駅か思い出せないことである。